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院長自己紹介:院長の実績と業績 その1:製薬会社に入ったきっかけ

はじめまして。東中野セント・アンジェラクリニック 院長の植地です。

東中野/落合の地に開院して半年が過ぎました。

まだまだ「あら、こんなところにクリニックがあったのね!」と言われることも多いので、皆様に覚えて頂けるよう、少しでも皆様のお役に立ちたいと思っています。

さて、院長である植地泰之医師の業績ですが、少々他のお医者さんとは違う経歴なので、ここでご説明させて頂きます。

杏林大学医学部を卒業後、第一内科という医局に入り、その後公立昭和病院循環器科、三鷹北口病院内科・血液透析科などで臨床経験を積みました。

ここまでは他の先生方とあまり変わりありませんが、ある日大学病院で「意識不明の肺がん患者さん」を診た時のことです。この患者さんの肺がんは小さくて、手術をすれば完治しそうな早期のものだったのですが、実はこの肺がんはあるホルモン様物質を作る特殊な肺がんで、肺がんが作る異常な物質のために骨からカルシウムがどんどん出てきて、高カルシウム血症になり、意識不明になっていたのです。この患者さんを治療するためにはビスホスホネートという薬を使えば良いことはアメリカの医学の教科書に書いてあるので、ビスホスホネートを使おうとしたのですが…日本では承認を取っていなかったので使えませんでした。アメリカやヨーロッパでは1970~1980年には「悪性腫瘍に伴う高カルシウム血症」の治療薬として使われて、教科書にも書いてある薬が日本では使えなかったのです。当時は日本の医薬品は欧米に比べて10~15年以上も遅れているのが当然だったので、別に珍しい話ではありません。海外では当たり前のことが日本ではできなかったのです。

内科の医者にとって薬は大きな武器の1つです。新しい検査や画像診断方法が開発されても、どんなに正確に診断をつけても、治療する薬がなければ見ていることしかできません。百歩譲って「世界中どこを探しても治療薬はない」のであればまだ、あきらめもつきます。でも、欧米では「教科書に載っている」ぐらい当たり前に利用できる医薬品が「日本では使えない」のはおかしくありませんか?実は発展途上国では自国で医薬品の開発や承認審査が行えないので、先進国が承認した医薬品はほぼ自動的に使えるようにするシステムがあります。このシステムのおかげで、発展途上国であっても新しい医薬品は使えるようになっていたので、いくつかの薬は「世界中でこの薬が使えないのは日本と北朝鮮ぐらい」と言われることもあったのです。いくらバブルがはじけたとはいえ、「日本は世界一の国でJapan as No.1でしょ?」と思っていた自分には大きなショックでした。

製薬会社の方とこの件で何回も話をする中で、この「日本の医薬品開発が10~15年遅れていること(今では「ドラッグ・ラグ」と言います)の壁は巨大で複雑で、ちょっとやそっとで消すことなどできそうもない、ということが分かりました。

また、当時は製薬会社の営業は「プロパー」という純粋な営業部員から、MRという「医薬情報担当者」に変化しようとしていた時期で、まだまだ医薬品情報の重要性をわかってもらえる時代ではありませんでした。医薬品情報をきちんと伝えることよりも、薬を使ってもらうことの方が大切で、製薬会社の営業と副作用の話やどういう患者さんに使えばいいか、という話はできなかったのです。

そこで

1 医薬品の承認の遅れを取り戻して、日本で使える医薬品を世界レベルにしよう!(今風に言うと「ドラッグ・ラグをなくそう」ということですね)

2 製薬会社の営業担当の医学知識レベルを上げて、医薬品情報や副作用情報、疾病情報がきちんと医師に伝わるようにしよう!

という2つを目的として、大学の医局を辞めて日本チバガイギーという製薬会社に入社することにしたのです。

大学の教授には公私ともにお世話になっていたこともあり、途中退局をして、しかも製薬会社に入社するなどという前代未聞の出来事に教授はカンカンに怒ってしまって、ちょっといろいろ大変だったのですが…まあ、それは昔話ですね。

当時、1994年時点で製薬会社に勤務している医師の数は、日本全国すべて合わせて50人ぐらいで、その半分は外人で残りは大学を引退した臨床薬理の先生方で、臨床医から35歳の若さで会社に入社するような医師はいませんでしたから、私は「日本で一番若い、臨床経験のある製薬会社勤務の医師(メディカルアドバイザー)」になった訳です。

日本チバガイギーには、私より少し早く私の先輩の臨床医の先生が入社していたので、日本チバガイギーとしては私は2人目のメディカルアドバイザーでした。そこで、先輩の先生が医薬品開発や市販後安全性を担当、私が営業・マーケティングやMRの教育を担当するように手分けをしました。まあ、先輩はすぐに海外勤務に行かせてもらっていたので、結局すぐに私が全部担当することになりましたけど。

 

 

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